【スーパーポジティブ理科教師】 まつしのプロフィール

投稿日:2018年6月30日 更新日:

まつしの画像

初めまして!まつしです!
私は現在、サポート校の主任兼理科教師を務めながら関西の不登校支援事業の運営に参画している26歳です。
カウンセリングや訪問支援などを通して、不登校の学生の復学支援も積極的に行なっています。また復学しなくても社会に出れる道を作ってあげたいと考え、稼ぐにフォーカスした不登校支援サービスを作るため日々奮闘しております
またwebメディアの運営物流関係フリーランスとしてデザイン制作や映像制作や楽曲制作などもしています

簡単な自己紹介

1992年6月30日生まれ。生まれも育ちも兵庫県。
不登校支援事業とフリースクールの運営に参画。
サポート校主任。理科教師。
ブログ運営。
デザイン制作・イラスト制作・映像制作・楽曲制作を行うクリエイター。

元バンドマン(ex:FREE SQUARES、MASH BROWN)

将来の夢は
まずは自分と家族を豊かにすること!
そして不登校の学生を救うエンジニア教師になること!
それができたらまた新しい夢みつけます!今はとにかく目の前の面白そうなことをしています!

趣味は
楽器演奏、遊戯王、読書(特に漫画)、お絵描き

経歴:
(1992年6月30日)兵庫県で生誕→足が早かった。イジメでサッカー辞める(小学生)→ヤンキーに憧れる。出不精極める(中学生)→勉強苦手で赤点連発。親が自己破産。ホームレス。(高校生)→奨学金600万を借りて教師になるため大学へ→勉強そっちのけで人生逆転を狙い起業、失敗を繰り返すが生きていけるようにはなる→卒業後、好きなことを仕事にしたいと決意。バンドマンとして音楽の世界へ→作曲の勉強をしたかったため、在宅の仕事を始める→映像・デザイン・楽曲制作で生計を立てる→元々の夢だった教員もしたくなり、学校でも働くが学校が合わなかったので退職→教員という仕事は好きだったので、不登校支援事業に携わる→自分の無力さに気づき、音楽も未来が見えなかったためバンドを辞める→勉強しまくり不登校支援事業の運営に参画→ブログなどのwebメディアを本格的に運営するなど自分を変えるための生活スタート→不登校の学生に多様な生き方を提案するため、まず自分が多様な生き方をしてみる人生スタート!!!→ITに可能性を感じ、プログラミングを猛勉強→エンジニア教師目指し爆進中!

興味持っていただければ是非Twitterなどでも繋がってください!

まつしのTwitter

まつしの人生

まつしの画像

まつし生誕

1992年6月30日に兵庫県尼崎市で生まれました。

とにかくやんちゃで好き放題していたみたいです。(母談)
当時の戦隊のオーレンジャーに憧れて頭を丸めていました。そう、変身後に憧れていたんです。変身後は全身タイツに身を包む戦隊モノですから。。。ほら。。。髪の毛生えていませんよね。(アホかおれ)

小学生時代

簡単解説

・足が速かった
・通信簿には毎回、リーダーシップはあるがもっと周りを見なさいと書き続けられる
・めっちゃサッカー好き

小学生の頃に親に勧められた野球を断固拒否しサッカーを始める。
野球を断った理由は
「打ったら1塁に走らないとダメだから」
この頃から謎の決まりごとは苦手だったようです。(アホかおれ。。)

サッカーでは市の代表選手に選ばれたりとサッカーに本気で打ち込んでいました。
当時の夢は【プロサッカー選手】

クラスでは割と目立つ存在で、友達と遊びまわっていました。

しかし、小学6年生の頃に部内でのいじめのターゲットになり逃げるようにサッカークラブを退部。

中学時代

簡単解説

・ヤンキーに憧れるがめっちゃサッカー好き
・出不精過ぎてほとんど外に出ない
・サッカーに絶望
・夢はとりあえず教師

サッカーは好きだったので中学のサッカー部に入部。
なぜかメキメキ上達し、監督に誘われ、同世代の県の代表選手の練習に参加するようになります。

しかし、極度の出不精で学校とサッカーの用事以外は外に全く出ずに家で漫画ばかり読んでいました。
ヤンキーに憧れていた黒歴史も持っています。
とにかくこの頃から大人の言うことを聞かず好きなことをし回っていました。

サッカーは好きだったので真面目にしました。しかし選抜の監督はとにかく勝てるサッカーを要求してきました。
私自身は楽しくサッカーをしたかったのですが、勝つサッカーを強要されるようになってからサッカー自体が楽しくなくなりました。「プロを目指すなら監督の指示通りに動かなければならないのか...」と悟り、サッカー選手という夢に魅力がなくなってしまいました。

そこからは夢もなく何となく毎日を過ごしていました。しかし親にも学校の先生にも「将来の夢は何?やりたいことは何?」と良く聞かれたのでその場凌ぎで「学校の先生かな」と言いました。
親も先生もその夢をすごく応援してくれたのを覚えています。

高校時代

簡単解説

・投資や起業の勉強し過ぎて赤点連発
・教師になるのに学校に勉強が必須だと知る
・めっちゃ勉強頑張る
・学級委員長とかする
・家庭が崩壊する
・ホームレス
・アルバイト生活

高校入学当初のまつし

写真だいぶイキってますね(笑)

夢は教師と言ったものの高校では勉強そっちのけで自分の興味のある事をし続けました。
家が貧乏だったこともあり、お金持ちに憧れていたので、”投資”や”起業”の勉強をしまくっていました。しかし、勉強するだけで行動は特に起こしませんでした。「学校の勉強が〜」「部活が〜」「遊ぶ用事が〜」など言い訳ばかりしていましたね。(笑)

しかも1年1学期からまさかの赤点宣告。
「このままでは卒業できないよ。しかもあんた教師になりたいんじゃないの?」と担任に言われました。

”何ぃぃぃぃ!??教師になるには大学に行かなければいけないのか!?”
「まじか〜教師って勉強いるのか〜でも周りの期待もあるしな〜しゃーない頑張るか」

ここで勉強のスイッチが入りテストの学年順位下から20番以内の私が上から20番に入ります。

担任は
何ぃぃぃぃぃぃ!?

って思ったでしょうね。(知らんけど)

そして高校3年生になり本格的に受験シーズンに入った頃、私の人生を大きく変えた事件が起きます。

親が自己破産

「あっ、、人生終わった。」と思いました。
親からは大学に行かせてあげられないかもしれないと言われ僕は自暴自棄になりました。家も差し押さえられ、帰る家もなくなりました。金目の物は全て無くなり

気づけば父親も家もなくなっていました。

ホームレス高校生ですね。(当時は死ぬほど恥ずかしかったです)

友達の家、親戚の家を転々とし何とか生きながらえますがお先真っ暗。
友達には明るく接しますが
”いっそ死んでやろうかな”と思う日々が続きました。

しかし、母親が本当に強い人で毎日毎日私と弟に不自由させないように朝から晩まで働いてくれましたその姿を見て僕も立ち上がり、新聞配達をしながら学校に通うことになります。
授業を受けて部活に出て、夜中は新聞配達。
大学は半分諦めていましたが、母親は私が教員を目指していることも知っていたので、「好きなことしたらいいで!」と言ってくれました。
「でも、受験は1回にしてな、お金かかるみたいやし、、」とも言われました。私は母親の期待を裏切りたくない一心から大学進学を決めました。また、母親に寂しい思いをさせないように、とりあえず家から近くて教員免許が取れる学校を選ぼうと思い推薦入試で甲南大学に入学しました。

大学時代

簡単解説

・めっちゃアルバイトする
・金なさ過ぎてご飯食えない
・起業する
・バンドにどハマりする
・就活、教員採用試験受けずにバンドの世界へ

親の自己破産で経済的な余裕は皆無。私は奨学金を利用し大学の授業料をまかないました。

私立理系ということもあり奨学金の額は600!!!
わぁお!!!借金生活!!!

そして少しでも家にお金を入れるために大学に通いながら働きました。

大学には教員免許取得のために通っていたようなものですが、教育大学ではないので、理系の卒業単位+教職の単位を取らないといけません。そのため授業も忙しく、少ない時間でアルバイトをしました。
しかし、アルバイトだけではなかなかお金も稼げなかった為、毎日昼食を抜いて過ごしていました。
(今でも大学の4年間の生活が抜けず昼食抜きでも何の問題もありません(笑))

大学にて(化学専攻で白衣着用)

お金がなさすぎて、困り果てた私は、お金持ち=起業家という短絡的な考えから起業します。物流や教育事業を手探りながら興していきました。初めは失敗しまくりましたがいつか成功すると信じて行動しました。いつしか少しずつお金も稼げるようになり、生活にも余裕が出てくるようになりました。(ここまでくるのにかなり投資しました...)

今思うとこの時期は本当に仕事中心の生活でした。お金がないときは日雇いのアルバイトもガンガンしていました。
行動するたびに新しい世界が広がり凄く楽しかったのを覚えています。失敗も多かったですが、毎日刺激的で楽しかったです!

そして高校の同級生とずっと憧れていたバンド活動も始めました。

バンド結成当時の写真(顔がキモい)

当時は稼がないと生きれない、家にお金を入れれない、会社も回せない、バンドもできないと思い必死でした。
(今がどんなにしんどくても、大学時代を思い出せば「まだまだいける...!!」と思えるくらいには濃い大学生活でした。)

そして、バンド活動を始めて数年たった頃には全国ツアーに出たり、CDショップにCDを置かせてもらったりとどっぷり音楽の世界にのめり込んでいきました。

ただ、昔からの夢である教師も周りに期待もあり諦めるのはダメだなと考え、結局バンド活動をしながら教員免許を取得しました。
そして、大学4年生になった時、私は進路に悩みました。

・就職活動
・教員の道
・バンドの道
・大学院への道
・当初起業した会社で勝負する

この選択肢の中で私はバンドの道を選びました!!
理由は、挑戦と自由な人生への憧れが大きかったです。今まで何となく周りに合わせて勉強し、過ごしてきましたが起業の経験とバンド活動の経験から自分の人生を自由に謳歌してみたいと思ったんです。
この選択は今でも正解だったなと思っています!

学部でただ一人スーツを着ない私は相当浮いていました。友人にも親にもかなり心配されましたが、自分の好きに生きたいという想いが強く、自分なら大丈夫という謎の自信が私を後押ししてくれました。

大学卒業後→現在

 

簡単解説

・音楽の世界へ!
・フリーランスの世界へ!
・学校教員の世界へ!
・不登校支援の世界へ!
・事業運営とブログの世界へ!
・好きを仕事に自由をモットーに

大学卒業後はとにかく音楽に打ち込みました。
音楽の世界では、私と同じように音楽に賭ける人たちで溢れかえっていて、私たちは全国津々浦々でライブをしました。
バンドマンといえば聞こえはいいですが、実際はフリーターですから、日中はアルバイト生活。夜になるとライブをしたり挨拶回り。夜中にはスタジオやミーティングがあり、明け方に眠りにつくのが当たり前の生活になっていました。金銭的な余裕もゼロで、稼げば湯水のように音楽にお金を使います。それが当たり前で、夢の中で生きている気がして心地よくもありました。

ライブの写真

がっつりライブハウスで活動していました。

当時のバンドのMVを紹介しておきます!

爽やかJ-POPの青春Music Video

お洒落なノリノリPOPバンド〜ヨーヨーのパフォーマンス凄い〜

私はFREE SQUARESというバンドと、FREE SQUARESが改名したMASH BROWNというバンドで活動していました。
(MASH BROWN
は僕が脱退した後も活動を続けています!皆さん応援よろしくお願いします!)

MVも出し、全国に足を運びライブを行い、毎夜毎夜ライブか打ち上げかスタジオかという生活を送りました。

タワレコにCDを流通した時

CDをショップに流通したりと認知度を上げるために試行錯誤しながら活動していました。
音楽活動をするにはお金は必要で、アルバイトだけではまかないきれず、私は大学時代に経験を積んだ物流と映像、デザイン関係の仕事で生計を立てようと考えました。楽曲もある程度作れるようになっていたので音楽関係でも仕事をもらったりとマルチな分野で働きました。数ヶ月すると、フリーランサーとしても数万ですが稼げるようになりました。
音楽も楽しいのですが、フリーランサーという働き方も自由度が高く非常に楽しいものでした。
この世には沢山の生き方があるなと学び、毎日が本当に刺激的でした。その中で経験として自分の昔の夢だった教員をしてみようと思い、教育業界でも働くようになりました。

学校教員も非常に楽しいものでした。私が今まで過ごしてきた音楽やフリーランスの世界とは全く違う世界でした。
しかし、何となく私には合わないなと思いながら働いていました。生徒と共に成長する日々は楽しいものでしたが、どこか心から仕事を楽しめない自分がいました。
学校教育にも様々な課題があると感じました。その話はまたの機会にしますが、とにかく学校教育は私には合いませんでした。

とは言うものの、教育関係の仕事は非常に楽しかったので、私は学校以外の教育現場を知るために、不登校支援事業に携わるようになります。

不登校支援では外出同行したり、家庭教師のように勉強を見たり、カウンセリングをしたり教員が普段あまりしないような仕事が多かった印象でした。

不登校支援は不登校支援=復学支援という構図になっていて、不登校の学生を学校に戻してあげれるよう様々な体制でサポート。フリースクールなどを経て大学進学を実現することが主な支援の形でした。
しかし私は、学校が苦手で学校に行けなくなった子たちに対して、学校にまた戻すのは如何なものかと思いました。勿論復学を望む生徒も多いですが、復学を望まずに、新しい道を模索する生徒もいます。
その生徒に対しても復学支援をすることはどこか違和感がありました。学校も学歴も大切なものですし、否定しませんが、私自身が今まで学歴をほぼ使わずに働いていたためか、学校に行くことを目的にする支援に違和感を持ちました。

また支援をしている学生を見ると、学校という環境が合わなかっただけで、才能溢れる学生ばかりです。学校教師として働いていた私は、学校が合わないと思い別の環境に移り自分らしく働けていますが、学生は学校から離れてしまうと別の環境がなかったり、生きにくくなってしまうのが現状です。

”学校以外の学び場を作れないか”
”学校に行かなくても自分らしく生きていける道を作れないか”

働きながらそのことばかり考えていました。しかし学校以外の学び場が圧倒的に少なく、学校教育を通っていないと社会の目も厳しいのが現状です。ある意味決まった道と言いますか、社会のレールというものが存在し、そこから外れるとなかなか戻ることが難しいのが現状だと思いました。外れる人に対して風当たりが強いのも確かです。

新卒で就職せずに音楽をしたり、会社を興したり、フリーランスをしてみたりと、ある意味社会のレールから盛大に外れていた私は”こんな生き方も楽しいのにな”と思っていました。と同時に、レールから外れることは茨の道ということは重々承知でした。また、まだまだその道で大成していない私ですからなかなかその道を学生にオススメできませんでした。オススメできない自分にも、学校以外の道が作れない私の無力さにも腹が立ちました。この頃に自分の発信力・経済力・自由な時間・精神的余裕などの無さを痛感しました。

この頃に一大決心として、長年続けてきた音楽を辞めました。自分を変えることが大きな理由の1つでした。他にも、一度きりの人生なのでもっといろんな世界を見ていろんな生き方をしてみたいとも思いました。

不登校の子たちにしっかり稼ぐ力を身につけさせてあげたいと思った私は稼ぐにフォーカスした勉強を始めました。
ある程度新しい不登校支援の形が出来上がったところで、たまたま一緒に飲みに行ってた企業の方とそのビジネスモデルで話が弾み、経営を学ばせてもらうため、不登校支援の運営に参画することになりました。

この頃から自分でもwebメディアの運営を始めたり、新規事業の立ち上げも行いました。
不登校の生徒を救うために様々な方法を模索しました。とにかく目の前のできることを必死になってやりました。

教師として働きながらも様々な副業を経験する日々が始まりました。
ある意味手探りな部分もありますし、忙しい日々ですが毎日が充実しています。

その中でITに可能性を感じて現在はプログラミングを猛勉強中です!
プログラミング×教育で、不登校の学生の新しい道を作れないかと、今はとにかく手を動かしながら爆進しております。

いつの日か、教育の新しい選択肢を作り、不登校の学生、様々な人を支援できるようになれればなと思っています!!

最後に

自分の好きなこと・ワクワクすることを中心に活動しています!
将来は、新しい不登校支援の形を作りたいです。

まつし」を今後ともよろしくお願いいたします。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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